北摂の大水害
(写真:護岸が整備された道の駅いながわ)
豊かな自然に恵まれた猪名川町周辺は古来から大自然の脅威にさらされ、古い記録にも「山崩」「川欠(かわかけ)」が記され、杉生には嘉永5(1852)年の「洪水屋敷等流失絵図」などの記録が残っています。
明治以降は二つの大洪水がありました。一つは明治29年8月30日夜の暴風と豪雨で、六瀬村役場(現六瀬住民センター)や人家17戸が流失し、死者29名もの大被害があり「笹尾流(ささおながれ)」と呼ばれています。
もう一つ、昭和28年「魔の二十八水」では、9月1日の豪雨で山崩れ、池の決壊、家屋や橋の流失などがあり、続いて同25日には台風が襲来し交通も途絶する大被害でした。幸いこのとき亡くなった人はありませんでしたが、六瀬地域の復興には7年もの歳月がかかりました。 現在では、二度とこのような被害のないよう河川などは改修され、また環境を学んだり安全に遊べる親水広場も4カ所に設置されています。
日照りと雨乞い
「時により す(過)ぐれば民のなげきなり 八大龍王 雨やめたまへ」とは、鎌倉三代将軍源実朝の歌ですが、雨の多少は大きな問題です。日照りの時、町域では昭和中期まで盛んに雨乞いが行われてきました。 氏神や寺(堂)で願掛け、お籠もりをし、大松明を焚き、大般若経の転読などをします。降雨が無ければ最終手段で、村々持ち寄りの柴を焚く「千束柴」が大野山や三草山の山頂で行われます。鉦や太鼓を打ち鳴らし「雨降れ祇園どん、たもれたもれ水神どん」や「雨たまえ八大竜王」と歌いつつ周囲を千度踏みして祈願しました。柏原・阿古谷の鰻の森、鎌倉の不動の滝のウナギは神への供物として神聖視され、決して殺さず降雨後は元へ戻されたのです。 町域では柏原、鎌倉、阿古谷の他に、差組の雨森神社、槻並の岩神さんでの雨乞いが記録されています。 稲作民族にとって水は、時に人命を懸けるほど大切なものでした。