杉生・西畑の秋祭
村に笛や太鼓の音が流れ、収穫を喜び、苦しかった1年間の労働をいやす。そんな秋祭は稲作が始まった頃からあったことでしょう。 町内各地には様々な祭がありますが、江戸時代、莫大な費用がかかることから「百石踊」と呼ばれた祭がありました。鎌倉・杉生・西畑の3つの村が合同で20から40年ごとに行ったものです。
古い記録を見れば、揃いの衣装も鮮やかな大変華やかなものでした。太鼓・笛・鼓のほか、歌い手、踊り手など50人余の人達が「池を掘れば水は出ないで宝が出た」などと、めでたい歌詞の「宝踊」や、宝船を歌った「渡船踊」などを歌い踊って練り歩き、杉生の一の宮・八阪神社に奉納し、豊作を感謝しました。 杉生・西畑の「練り込み」はこの流れをひくもので、以前は鎌倉地区も加わっていました。八阪神社の長床(農村舞台)には安政3年の再建時に回り舞台が設けられています。
「お蔭踊り」と町域での流行
平安中期から明治初期まで「御師」という回国の祈祷師がおり、江戸期には農村と強く結びつき、また伊勢神宮が農耕神として信仰されて伊勢講が盛んとなりました。 伊勢講では、御師の先導で総参りや当番の代参が行われましたが、参加できない人が家族や雇い主に無断で参詣する抜け参りがたびたびおこなわれました。
江戸期を通じて、ほぼ61年に一度爆発的に起こった抜け参りが御蔭参りで、神徳に感謝して集団で熱狂的に踊る御蔭踊りも村々でおこなわれました。天保元(1830)年、大規模な御蔭参りがおこり、5月頃には河内から御蔭踊りが流行りだし、翌年3月には池田までおよび、5月には川辺郡で、奥川辺の六瀬では8・9月頃に踊られました。仮装や揃いの衣装で、振付師を招いたり、他村への掛け踊りなどしました。
掛け踊りの番付がある石道村(現川西市)の古記録には「一番広根、二番猪渕、三番内馬場」とあり、地域全体での開放感が伺えます。