猪名川の鉄道
明治以降、北摂では様々な鉄道敷 設の案や変遷がありました。その一つに現在のJR福知山線があります。最終的には伊丹の「大阪第4師団」と篠山「歩兵第70連隊」、軍港舞鶴とを結ぶ計画で、現猪名川町域がルートに考えられていたのです。しかし、賛否渦巻く中で結局は三田を通る路線が選ばれたのでした。結果として美しい風光が残されたことは喜ぶべきことでしょう。しかし、町域に鉄道が敷設されるには昭和後期まで待たなければなりませんでした。 昭和53年12月12日、能勢電鉄山下駅から阪急日生ニュータウンまで新路線が開通、猪名川町の表玄関日生中央駅が誕生。複線2.7キロメートル。山下からニュータウン間の新設工費64億円と、山下駅周辺整備費11億円の半額は、日本生命が負担し新聞などを賑わせました。現在は梅田駅へ45分の「日生エクスプレス」もあり、鉄道の敷設は町人口3万人突破の一要因ともいえるでしょう。
北摂バスと篠山街道
(写真:中村村道路元標・広根地区)
大正10年7月、中谷村や六瀬村などの村人12人が発起人となり、広根に本社を置く北摂自動車株式会社が、資本金5万円で設立されました。池田駅から杉生間の乗客・貨物を輸送する計画で、6人乗り幌型車両3台が準備され、同年8月、島から小戸(川西市)間の運行が始まり北摂バスと呼ばれました。大正12年には株主数311人の中で一株株主が140人という、まさに村人達に維持された村人のための近代的交通機関でした。のちに合併を重ね、昭和22年阪急バスに統合されました。 明治40年の篠山歩兵第70連隊設置により、伊丹市の大阪第4師団とを結ぶ篠山街道は改修が進み、屏風岩の上を通っていた道も崖下に移設され、新道ができました。しかし、増水時に通行できなくなることが再三あったため、昭和の初めに車が通れなかった屏風岩横の板橋を架けかえ、バスやトラックが通行できる道にしました。当時の六瀬村道路元標が木津橋北に、中谷村道路元標は広根警察署跡近くに残されています。