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くじで決めた山境

万治3(1660)年、下原村・上原村と内馬場村とで取り交わした「山境改証文」が残されています。燃料や家畜の飼料、農機具類の材料となる木材の供給源である山は、戦後しばらくまでの暮らしにとって非常に大切なものでした。江戸時代には、境目の目印に岩や木などが使われたため年月が経つと判別しにくくなり、度々山論が起こりました。  この証文は、現在の日生中央周辺にあたる細黒見山と川裏山の3か村境を取り決めたもので、論争が続いたため、ついに伊勢大神宮の御師が「御幣くじ」で山の境を定めたという珍しいものです。境には炭を埋めお払いをし、定めを破れば神罰があるとされました。しかし30年後には「銅山出来」で再び論争し、境目に堀切をしました。
 その後、文化12(1815)年に別の山論が解決した際、細黒見内の西松尾が替地され、内馬場領となったという改絵図も残っています。

 

猪名川町の城跡

(写真:木間生城があったとされる宮山)

枯草の間から新芽が背伸びをする季節です。町内には、高い山や低い山が多くありますが、その内9カ所の山には、その昔城が築かれていました。  北から、杉生城、若城(島)、愛宕山城(清水)、笹尾城、木間生城、三蔵山城(木津)、木津城、西峰城(阿古谷)、銀山城です。作られたのは室町時代頃ですが、なかには銀山城のように平安時代末と伝えられている所もあります。砦のような、小規模の簡素な城でしたが、西峰城を除いた8カ所では、今もその名残を感じることができます。城にまつわる伝説では、銀山城の戦いの折、竹の皮を裏向けに城壁に張り敵が登るのを防いだ話や、落城の際、金鶏を抱き井戸へ投身したので、 今も元旦には井戸あとで鶏が鳴くという話があります。また三蔵山城には、悲恋の佐保姫伝説や、山頂に見えるというドクロの話、大蛇がいるという話が今もささやかれています。

 

多田隊出陣と御家人屋敷

慶応4(1868)年1月6日、多田院(現多田神社)に、前年12月成立の新政府から多田院御家人達を招集する「達(たっし)」が届きました。  多田院御家人とは、平安時代に多田庄を開いた源満仲の家臣の子孫達で、多田院奉仕のため、鎌倉幕府の御家人として承認され、後に村々の指導者層になっていった人々です。
 御家人達は京で多田隊となり、うち20人は東山道鎮撫軍(とうさんどうちんぶぐん)に旗本として参加、戦闘のほか赤報隊の捕縛などを命じられます。隊士の新井三郎は相楽総三や近藤勇の処刑も行いました。また、仁和寺宮付属の隊士は会津征討軍として北越戦争に向かい、同年9月、明治改元の直後に庄内藩との戦いで能勢出身の人が戦死しています。
 明治2年7月多田隊は廃止。恩賞少々と士族身分を与えられたのみながら、新時代建設に尽くした誇りは大きなものでした。槻並、阿古谷などに当時をしのばせる御家人屋敷が残されています。